一方放送

宙に足がつく

「言葉」という道具の絶対的な不完全性

もし私たちに言葉がなかったら、と、ふと考えます。

まず意志疎通が図れなくなりますね。にっこり笑って(敵意はありません)、腕を掴んで(やめなさい)、そういうことは伝えられても、今日学校で何があってどう思った、という高次な出来事を「話す」のは難しい。そもそも大抵の出来事は、それ自体が言葉ありきで起こっていますから、言葉がなければ、この世界自体が非常に低次なものに成り下がるでしょう。
でも言葉だって、その性質からしてとても不完全なものです。何故なら言葉はコミュニケーションの道具であるが故に、道具以上のものにはなり得ないからです。


これはどういうことか。例えばですね、私があなたに、「今日教室で隣の女の子の消しゴムを拾った」と話したとします。するとあなたは、私が教室で隣の女の子の消しゴムを拾う姿を何となくイメージするでしょう。でもこのとき、消しゴムを拾ったという出来事を思い出しながら話す私と、その話を聞いて情景をイメージするあなたとで、完全にイメージを共有することは不可能です。
当たり前ですけどね、あなたは私が消しゴムを拾ったそのとき、その場にいなかったわけですから、どういう教室なのか、隣はどういう女の子だったか、私はどういう姿勢だったか、そういうことはわからないでしょう。だから勝手にイメージするしかない、そしてそのイメージが事実に正確であることはあり得ません。これは言葉を尽くせばどうにかなるという話ではない。どんな丁寧な説明でも、記憶を共有するということはできないんです。言葉はあくまで道具、イメージを喚起するための記号にすぎませんから。


「消しゴムを拾った」なんて単純な話なら大したことはありませんが、これが家族と喧嘩した話だったら?同窓会に行った話だったら?世界旅行した話だったら?場の風景も、話に登場する人も、その声色も、話す側と聞く側では、全く違うイメージのまま情報が伝わるわけです。そしてそれは問題になりません、お互いの頭の中は覗けませんから。両者がイメージを共有しているという前提で、会話は進んでいきます。話す側は自然と、自分が思い浮かべている情景と同じ情景が相手の頭に浮かんでいると、そう信じてるんです、違うのにね。不完全さすら意識されない、それが言葉の持つ不完全さです。

だから、もし言葉がなかったら、自然発生的に、こんな不完全な言葉に代わるコミュニケーション方法が生まれたんじゃないかなあ、なんて想像します。それこそテレパシーみたいなね。
情景も、感情も、思考も、痛みすら共有できてしまうコミュニケーション方法。そういう進化の奇跡は、意志疎通をしなきゃならないときに言葉って発想がなければ、あり得たんじゃないかなあって、想像するんです。

金のかからない非日常体験

こんにちは。第二回目です。前回、認識で無限に世界が変わるとかなんとかいうお話をしたんですけど、私はこんなことをいつも考えていて、つまり何をしたらどのように認識が変わるかってことですね、このブログではそういう話題が中心になると思うので、ここで一度、何故私が認識を変えたいと思うのか、その思考過程を話そうと思います。

「認識を変えたい」という表現をしていますが、もっと詳しく言うとこれは、「今目の前にある世界の認知方法を変えたい」ということです。

それをするとどうなるか、恐らく、今目の前にある世界ががらりと変わるんですね、つまり非日常体験ができる。テーマパークに行かなくても、外国に行かなくても、今すぐこの場でできる。しかもお金はかかりません。私はそんな非日常体験がしたい、そして多彩な経験をしてみたい。

認識を変えたいという願望は、そのまま非日常体験がしたいという願望に置き換えられます。何故なら、人間に与えられた物質世界は(建物、草木、空に雲!)皆に等しく同じですが、それを認識する方法は個々人で違うからです。私とあなたが並んで空を見ていても、全く同じように空が見えているわけではない、というようなことです、よく言われる話ですけど。

これはどうしようもない話で、私があなたと全く同じように空を見ようと思ったってそれは絶対に無理なんです。あなたが見ている空はあなたの網膜に映りあなたの脳で、それもあなたが生きてきた年数ぶんの経験を刻みこんだあなたの脳で、処理されたあとの空ですから。あなたも私も同じ日本人ならばその差異は小さいでしょうけど、あなたがイギリス人だったら?私がパプアニューギニア人だったら?別世界でしょうね。技術が進んで脳をくっつけたりとかできればいいんですが、今はできないわけです、とても無念。それができればもう、初めに書いた願望は満たされるんですけど。

だから他者の認識で世界を認識するのは諦めるとして、どうするかって話です。自分で完結しなきゃならないわけですからこれは難しい、私は睡眠を分割したり断食したりしていました。まあこの話はまた今度します。

そんなわけで、私は認識を変えたい変えたいと、いつも考えてるんです。

   

世界に飽きたら絵本に逃げろ

はじめましてこんにちは。一方的に話したいことを話すブログ、一方放送です。今回は第一回目ということで、退屈に飽きた全人類に一つ提案したいと思います。

 毎日毎日似たような日々、朝起き着替えて出勤し、仕事で疲れて帰って眠る。まあこれは一例に過ぎませんが大抵の人は何らかのルーチンが続いていると思います。退屈ですね、刺激がほしい。ちなみに私自身は刺激的エブリデイを楽しんでおりますが、それはさておき、どう退屈を打破するかということです。タイトルにも記しましたが、みなさん絵本に逃げましょう。

 絵本です、絵本というと何が思い浮かびますか?雲はわたあめ小鳥のおしゃべり、風は喧嘩し空は泣く。メルヘンですね、メルヘン過ぎるかもしれません。現実ではありえません、だって雲は蒸気で小鳥は本能、風も雨も大いなる自然現象ですから。これがいつもの世界、みなさんのルーチンを支える当たり前の世界ですね。

でも、それをいちいち確認しているわけではないでしょう。つまり実感でなく知識としてこの世界は認識されているのです、雲が蒸気であることを日常で実感することはないですからね。みなさんが実感するのは五感でとらえられる範囲のみです、雲が白くてふわふわしてんな、小鳥チュンチュン鳴いてんな。

じゃあ雲がわたあめでも小鳥が何言っててもよくないですか?

風に揺れる葉っぱを「ガラスだ」って思うのは難しいですけど、雲がわたあめだって思うことは簡単なんですよ。五感でどうとらえられるかは騙せなくても、認識はその気になれば騙せるからです。そして雲がわたあめだと思った瞬間に、みなさんは雲が蒸気である世界から脱するわけです。ルーチンの根本にある現実世界からね。これで一つの退屈が打破されます。

雲がわたあめでもいいんだ、と思えると、小鳥が下ネタで盛り上がってても、風が綿毛を奪いあってても、空が太陽に怒られて泣いてても、なんでもよくなります。今この瞬間に確認しえないことは、今この瞬間にどうあることも可能だからです。こうして退屈がひっくり返っていくというわけです。みなさんはすでに違う世界にいて、無限の世界を持ちました。

 

おめでとうございます。